道展物語(12)~美術館の要望~

道展物語

2023.05.19

 はじめは広かった農業館の展覧会場も、搬入作品が増えた上に大きくなり、満足できる展覧会を開くには壁面が狭すぎ、作品を制限するなど、無理を重ねなければならない事情を生じ、道展内部から札幌に美術館を要望する声が起こった。昭和12年第13回道展を開くにあたり、今田敬一は次の様に述べた。

~道展の一つの悩みは、作品を並べる壁面の不足である。延長およそ二百間の現在の壁面は、必ずしも小さくないのだが応募作品に比べると甚だ狭いのである。近頃の様に作品の水準が高まり、また大作の傾向を帯びてくると、必要以上の厳選になり、作家は互いに作品の発表を譲り合う必要も生じてくる。その結果は、展覧会の迫力を減ずる恐れを生ずる。この様な事態はもう道展に発生していて、そのため道展の真価をどうかすると、実際より低く評価する恐れが無いとは言えない。現在のままでも、道展は充分鑑賞に値し、高い意義を持つものではあるが、もし道展の会場を現在の三倍にし、優秀な作家が全能力を発揮できる様にするなら、道展の価値はたちまち数倍し偉力を発揮するだろう。この意味から、完備した大きい美術館を早く札幌市に建てたいものである。~以下略(北海タイムス・昭和12年9月18日掲載)

 札幌市民会館は、昭和32年5月から工事を始めている。これに先立ち、文化団体の要望が検討された時、道展は田代正秀、本間莞彩らを代表者として送り、美術館としての機能を持たせる事を要望したが、結局、会議室にパネルを立て、展覧会転用できる計画に落ち着いてしまった。これは見せかけは一応合理的だが、狭い上に、展覧会場としては極めて中途半端で、美術館とはほど遠いものにすぎなかった。 

 昭和36年9月、美術館として完全な機能を持ち、しかも北海道の美術活動に適切で本格的な美術館の建設を目指し、北海道美術館建設期成会が生まれ、道展から多くの役員が送られている。北海道に美術館の必要を身をもって早くから体験した道展が、ようやく期成会の運動を見るに至るまで、およそ25年の長い歳月が流れている。 (続く)~次回『戦時色の影』

~道展四十年史より(一部中略あり)(K.W.)

トップへ戻る