道展物語(7)~花開く昭和初期~

道展物語

2023.05.19

 昭和5、6年頃になると道展会員の中央進出が珍しくなくなり、それにともない道展の水準も高められた。

 創立会員の山本菊造の春陽会入選は昭和3年であったが、次第にフォービズムの傾向をあらわし、翌4年に二科会展に移り「白い旗のある風景」が入選した。昭和5年の春は独立美術協会展に「山」を出品、秋には二科会展に「少年像」を出品した。

 後に道展会員になった菊地精二も、昭和4年に二科会展入選、翌5年に独立美術協会展に移った。

 創立会員の能勢真美は、昭和5年第11回帝展に進出した。山本と通り一つ隔てた駅前通りに、ささやかな眼鏡店をしばらく開いていた時代である。

 能勢は翌6年、帝展に再入選した。帝展出品はその後も毎年続き、昭和10年、帝展解消後の第二部会にも入選した。また、昭和8年に旺玄社の創立会員となり、これにも出品が続いたが、昭和14年から一水会に移った。このようにして能勢は、日展系の美術家としての地位が早くから固まっていた。

 旭川の創立会員の高橋北修は、昭和6年に帝展に初入選、函館の道展会員も酒谷小三郎をはじめ、昭和5、6年頃に中央に進出した者が多かった。

 昭和7年の第8回道展の頃になると、大正末期から昭和2、3年頃はまだ珍しかった北海道の美術家の中央進出は、その後の数年で道展としても、また北海道としても、珍しくもなんともない、至極当たり前の事になってしまった。

北海道の美術全体がそこまで進んだのである。(続く)

~道展四十年史より(一部中略あり)

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